会員より

坂本 公さん(文学部教育学科通信教育課程2004年卒)より

2016年4月に発生した熊本地震から、まもなく10年を迎えます。当時、被災地で認定こども園の園長として地域の対応にあたられた坂本公さん(文学部教育学科通信教育課程2004年卒)より、当時の思いやご支援への感謝、また玉川での学びが今の生き方にどうつながっているかを綴ったお便りが届きました。
「たまがわ」162号(2026.7.1発行)P18に掲載いたしましたお便りの全文となります。

【感謝】玉川っこの素敵さ及び玉川での学びの凄さ


遠い昔、玉川の丘で豊かで貴重な学びをさせていただいた「坂本公(さかもとこう)」と申します。

  • 昭和60年3月 玉川学園中学部卒
  • 平成元年3月 玉川学園高等部卒
  • 平成16年3月 玉川大学通信教育部文学部教育学科卒

現在、ご縁があった熊本で「認定こども園園長」として、教育・保育活動をしています。

来る4月14日及び16日は、『熊本地震発生から10年』となります。玉川っこの大きく・温かな支援がたくさんありました。現在、他の被災地も含め、物的・精神的にも厳しい状態に向き合っている方々が、「被災に区切りはない」とおっしゃっている気持ちも同時に理解する中で・・・

一つの大きな節目・通過点を迎えるにあたり、今もその温かい想いを力に変えて生活していること・玉川っこの素敵さや玉川での貴重な学びの凄さ等について、お伝えしたい一心で書かせていただきました。

ご縁があった熊本で、今年32年目を迎えますが・・・10年前のあの日・あの瞬間は・・・今でも鮮明に憶えています。

前震(21:26)

家族で夕食を食べている時、突然大きな揺れが起こり、自身の体が下から大きく突き上げられ、目の前の鍋が宙に浮き、各自が必死になって床に這いつくばりました。
その後、直ぐに住んでいた団地集会広場に行きましたが、建物に亀裂が走り、さまざまな情報が錯綜する等、不安や動揺が大きく広がっていました。

離れて一人で住んでいた義理の父への連絡がつかず、最低限の物を集め、直ぐに車で向かう途中で、道路の亀裂や盛り上がり・ブロック塀倒壊崩・サイレンが鳴り響く中、大きな橋を渡ることに躊躇と恐怖心を覚えた記憶があります。
直ぐに父と対面し、近くの学校へ避難しましたが、地割れの亀裂等、車中泊での不安は消えませんでした。一方で多くの方々が、車両も無く、暗闇と寒さの中で、ブルーシートやパイプ椅子に座っている状態に対して、何も出来ないことへ、心を痛めたことを思い出します。
その後、車中泊は父にとって負担が大きいと判断し、車を残し、父の家へ戻りました。

※義理の母は、2回の地震発生の時は、病院に入院しており無事でした。

本震(1:25)

大きな揺れと共に、現実を理解することが難しく、暗闇の中、必死に妻の上に覆いかぶさり、まわりにいる家族に叫び続けました。「ここで、命が尽きる」と、強く想った瞬間でした。
再度、避難所へ戻りましたが、続々と人が集まり、大混乱となっていました。

翌朝、何とかタクシーに飛び乗ることができ、職場での地域対応(2週間:園庭・駐車場開放・一部保育室提供等)をスタートしました。まわりでは、全壊・半壊・一部損壊・避難勧告・余震警戒(県外へ)等となり、職員の安全や自宅支援等も考慮し、24時間体制で一人園に残り、必死になって対応しました。

その中で、さなざなな出会いがあり、互いに勇気や元気を分かち合うと共に、懸命に支え合いました。一方で、さまざまな対応に追われ、人生において自分の力以上のものを求められ、ギリギリまで追い込まれた瞬間でもありました。本当に、肉体的にも、精神的に厳しい瞬間・さまざまな判断等があっという間に押し寄せてきて、心と体のバランスを保つことがとても難しかった事実があります。

そんな時、中学・高校時代の同級生から連絡がありました。彼女は、何気なくも心遣いに溢れていました。現在状況を少し伝えると・・・その後あっという間に、多くの温かい支援が連日自宅や園に届け続けられました。

支援物資の多くは、園で分け合ったり、地域の避難所へ届ける(夜中)日々となりました。

※一部は、園の備蓄品として、現在も倉庫にあります。

避難してきた人々や、他の避難所へ届ける中で、各自が必死になって頑張っている姿や互いにエールを送る瞬間等、結果的に自身にとって大きな力やホッと心が休まる時間となりました。改めて、『人の想い・温かさの有難さ』を、痛感し続けた日々でした。

後日、義捐金(70万円以上が届き、その後の支援物資や現金等も含めると、100万円は越えていたと思います)が、我が家に届けられました。私のまわりで、そのような支援をしてもらっている人たちの話を見聞きしていなかったので、唯々感謝と共に、あまりの金額の大きさに驚きました。

その後、家族で話し合いを重ね、とても迷いましたが、自分たちよりも地域で困っている方々を支援すること(例:病院・被害が大きかった町や村・熊本城等地域施設・県市幼稚園団体・ボランティア団体・職場・職員・保護者・友人等)を決定しました。

※皆さまの想いを踏まえ、一部自宅必要備品を購入させてもらいました。

その後も、個人的に励ましの手紙や電話・職場訪問や最新情報通知(例:被災後の心構え・温泉場所等)等もありました。同級生(中には、学生時代交流が多くなかった同級生や名乗らず、義捐金や物資を届ける同級生もいたと思います)・恩師・部活の後輩・同級生の職場(友人関係者含む)等も含め、想いが届け続けられました。

※園児や職員へお菓子・オモチャ・衣服や食品等、さまざまな支援物資が届けられました。

※中には、熊本県産購入・後日熊本県訪問(他県ナンバー等を見ると、とても嬉しく思いました)等もあったと思います。

まだまだ書ききれませんが、本当に多くの方々の温かい想いが届けられ・・・その結果として・・・

私を支え続けてくれました。
家族を支え続けてくれました。
園児や職員、保護者の皆さまを支え続けてくれました。
地域の方々を支え続けてくれました。

熊本は・・・熊本県民は・・・多くの人たちに支えられ、少しずつ(心も含め)復興し続けています。

私自身は目の前のことに必死になっていましたが・・・振り返ってみると、さまざまな対応や判断等の後押しを、そっとたくさんしていただきました。震災を経験した子供たちが卒園するまでの5年間は、責任の重さも含め、無我夢中でした。その後、コロナ禍もあり、本当に厳しい対応を再度求められましたが、あの時の支援の経験や皆さまからいただいた温かい想いで残ったエネルギーで、対応出来たような気がしています。

私ができたことは限られていましたが・・・結果的に、多くの人たちを支えることができたと思います。そのこと踏まえると、『玉川っこの皆さんが想いを馳せ、想いを届けてくれたことにより、多くの被災者が元気や勇気をもらい、またそのエネルギーを周りの人たちに届け続けられたことに、今も感謝の想いで生活している』と思います。

『玉川っこの皆さんが考えている以上に、とても大きな輪が広がり続け、たくさんの人たちを支え、今生活出来ている』ことを考えると、本当に凄いことをされたと唯々頭が下がるばかりです。

地震の経過が早いか遅いかは、被災者にとって、各自の想いや感じ方はそれぞれあると思いますが、個人的にはあっという間の10年間だったと思っています。

もし、昼間に発生していたら・・・
もし、冬場に発生していたら・・・
もし、家族が一緒にいない状態だったら・・・
もし、玉川っこからの温かい輪の支援がなかったら・・・

また、「あの対応で良かったのか」等、今でも思い続けていますが・・・玉川っこの皆さんが想いを馳せたことは、『目の前の(一人にした)こと』かもしれませんが・・・その後ろに、何人・何十人・何百人・それ以上の人たちが支えられ、力をもらい、その想いを力に変えて、さらに周りの人たちを支え続けた人々がいることを考えると、本当に凄いことをされたと思うばかりであり、感謝の言葉は尽きません。

また、「玉川大学・玉川学園学友会熊本支部会」に参加した際も、学友会から多額の寄付が届き、関係者へ届けられると共に、後日小原芳明理事長・学園長先生ご夫妻等も支部会にご参加され、私たちを勇気づけていただきました。

当時神奈川県に暮らし心配していた父と母は、このことがあったお陰で、とても安心して遠くから応援してくれました。父は、「大変なこともあると思うが、目の前の出来ることを一生懸命頑張りなさい」・母は、「玉川での学びが、今のご縁や支援につながっているのでしょう。何も考えずに、楽しく過ごしてきてあなたにとって、天命と思い、感謝しながら今出来ることにベストを尽くしてください」と良く言っていました。

当時高校生だった我が子は、この体験を通して「いつかまわりの人の支えになれる人になりたい」と言っていましたが、現在長女は中学校教諭となり・次女は社会人を経験し、今年から特別支援学校教諭となります。私自身は、この体験に感謝し、園児に『心の大切さ』を伝え続けると共に、仕事外では地域団体役員・民生児童委員・保護司・献血・被災地ボランティア・義捐金送金等、ご縁があることや出来る範囲のこと等を模索しながら、日々の生活を送っています。

改めて、創立者の小原國芳先生の・・・

『人生の最も苦しい、いやな辛いそんな場面を、真っ先に微笑みを以って担当せよ』

という言葉を強く感じています。

学生時代は、部活や友人との交流が中心で、労作・讃美歌・鍛錬旅行・青雲塾・寒稽古・自由研究・礼拝堂や勉学等も含め、その意味も理解せず、本当に楽しく過ごさせていただきました。結果的に、高校も一年長く過ごし、大学も進学することができず、自分からドロップアウトした人間(その後、アメリカの短大を卒業し、再び玉川で学ぶことになりますが)ですが・・・玉川で豊かに過ごし、楽しさの中にも玉川の教えが自身の生き方に流れ・影響し、心の土台となり、現在活かされており、重ねて学びの大切さを今痛感しています。

今年、「中学部同窓会」があり、参加する機会がありました。そこに集まった友人の豊かな人間性と先生方の熱き想い。何も変わっておらず、玉川の学びが息づいていました。恩師の先生の挨拶で、『生きていてくれてありがとう』とおっしゃっていました。残念ながら、既に数名の友人が他界していましたが、その言葉はとても強く印象に残っています。私には、『(人生山あり谷ありだが、自分らしく)生き続けろ』というエールに聞こえました。

学生時代を振り返ってみると、当時何事にも反抗していましたが・・・恩師は、いつも汗をかきながら、学生に寄り添い続けていました。いつも涙を流しながら、熱い言葉を掛け続けていました。その当時は、恩師の想いを全く理解出来ませんでしたが・・・今、私は全く同じことを、小さな子どもたちにしています。

私自身は、「正式な玉川っこではない」と自負していますが、玉川学園で学べたことを感謝し、喜びを感じています。現在、玉川っことして、学生として学んでいる皆さんには、このご縁や学べる幸せに感謝し、「自分らしさ」を追求し、夢に向かって邁進していただきたいと思います。

現在も、日本に限らず世界では、自然災害や紛争等により、苦しんだり、厳しい生活を送っている人たちがいます。そんな人たちに想いを馳せるだけでも、大きな支援になります。機会があれば、想いを届けることが、大きな支えとなります。ご縁も含め、今の生活や他者の存在に感謝することも、大切なことではないでしょうか。自身の経験を踏まえ、分かったことです。

改めて、想いを馳せる・ご支援をいただきました全ての皆さまに、深く感謝申し上げます。学生時代に想いを持ってご指導いただいた先生方や、一緒に素敵な時間を過ごした学友の皆さま方に、深く感謝申し上げます。

学生時代は、玉川での学びを具現化出来ませんでしたが・・・そんな私でも、変われるのです。私でも、何か出来ることがあるのです。

小原國芳先生の全人教育の先に・・・「そんな変わった卒業生が、一人いても良いのでは」と勝手に思っているところです。

引き続き、玉川での学びを土台に・・・ご縁があった熊本で、目の前の子どもたちや関係者等に、丁寧に関わっていきたいと思います。

玉川っこの素敵さや玉川での学びの凄さ等が、少しでも伝わることを願っています。

玉川学園の歩み・取り組みが、地域や社会に大きく貢献されていることに深い敬意を表すると共に、今後もさらなる発展と充実を心より願っています。

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